一番小さな頃の記憶
3歳くらいの時かな。ひいじいちゃんの葬式の日、ひいじいちゃん家での光景を覚えている。
ひいじいちゃんの家は、福岡市博多区古門戸町にあった。福岡の中でも活気のいい場所に建つ、どデカイじいちゃん家。
というか3〜4階建てくらいのビル。
ひいじいちゃんは戦後、何もないところから「博多浦崎人形店」を創業した。ひいじいちゃんはその「博多浦崎人形店」に住んでいんだ。
大きなシャッターをガラガラと開けて一面ガラス張りのこれまた大きな入り口を入ると、目の前には銀行の受付窓口のようなカウンターがあり、奥には職員室くらいの広さの事務所が広がっている。
どこだったかな。
立派な額縁に入って壁にかけられた、すごい白黒写真も飾ってあった。
ひいじいちゃんとひいばあちゃんが、まだ皇太子妃だった頃の美智子様から勲章をもらっている写真。
当時は当たり前のように眺めていたけど、いま考えたらすごい写真だ。
事務所の奥が居住スペースになっていて、ひいじいちゃん夫婦が二階、じいちゃん夫婦が一階に住んでいたので、浦崎家ではひいじいちゃんとひいばあちゃんを「にかいのじいちゃん」「にかいのばあちゃん」と呼んでいた。
その”にかいのじいちゃん”の葬式の日、にかいのじいちゃん家での記憶が、僕のいちばん最初の思い出かもしれない。
母と父いわく、生まれてはじめて死というものに遭遇したボクは「死にたくない!」とギャン泣きしていたらしい。
それは覚えてないけど。
でも、ひいじいちゃんの葬式の日に、ひいじいちゃんの部屋に向かう階段の踊り場で一人で遊んでいた時の景色は、なぜか鮮明に残っている。
二番目の記憶
幼稚園児か小学1年生の頃。
当時、福岡市の東区にある香椎浜というベッドタウンに住んでいた。香椎浜という地名が表す通り、近くには海があった。
海沿いのマンションに住んでいて、マンションと海の間には松林の遊歩道が広がっている、気持ちのいい場所だった。
二番目の記憶は、その香椎浜のマンションで過ごした夜のひと時。その日は、幼なじみ家族たちとホームパーティーが行われていた。
いつものように大人はおとな、子供はこどもで楽しい夜だった。
はず。
「はず」と書いたのには理由があって、僕の記憶には、その日の楽しさなんて一切残ってないの。
テーブルの脚にすがって、泣き崩れていたんです。
リビングにあったアンティーク調の木のテーブルの手ざわり、テーブル下の薄暗い雰囲気、床に敷いてあった絨毯の無機質な模様だけが思い出に刻まれているの。
何故かって?
ノストラのせいだよ!
周りの大人やお兄ちゃんお姉ちゃんたちが、いわゆる怖い話の一つのような感じでキャッキャと話してた「ノストラダムスの大予言」を聞いて、僕はそれを間に受けてしまいました。
楽しかったハズなのに。
未来なんて想像すらしてなかったであろうに。
未来になんの不安も感じていない、幼いボクが聞いてしまった衝撃の事実。
どうやら世界は滅んでしまうらしい。1999年に。
(いや、事実じゃねーし)
その瞬間から僕の世界は変わりました。
マジで絶望しました。
それ以来、中学2年生になるまで、僕は1999年の自分を想像しながら、人生の最後に腹をくくるイメトレをしていました。
可愛らしいと思いませんか?
少年時代
ノストラショックのあとくらいから、段々と思い出が鮮明になってくる。
毎年の誕生日、クリスマス、お正月が楽しみだったこと。
毎年、浦崎家一族でガッツリ参加していた博多のお祭り「博多祇園山笠」のこと。
ピアノを習っていたこと。
水泳を習っていたこと。
よく色々な所に遊びに連れて行ってもらってたこと。
海、山、川、遊園地、外食、キャンプ、旅行・・・
いま考えたら、すげー贅沢な子供時代。こうして書いてみると、恵まれた少年時代だったんだなとビックリしている。
体験だけではない。
両親や祖父母のおかげで、僕の周りには僕に愛を注いでくれる親戚や大人、友達がたくさんいた。
改めて感謝せねば。
「お母さんお父さん、じいちゃんばあちゃん、ご先祖様。僕はいま、マクドナルドで文章を書きながら、手を合わせて感謝を表しております」
転校が多かった小学校時代
少年時代の思い出でもう一つは外せないのが、小学校のこと。なぜだか分からないが、僕は転校を3度経験し、4つの小学校に通った。
親が転勤族だったわけでも、転職したわけでもない。おそらくしっくり来る家を探していたのだろう。
本気を出せばどの場所にも自転車で行けるという位の範囲内で、何度も引越しを経験した。
一つ目の香椎浜小学校は1年生の2学期まで。
前述の通り、海が近くにあるベッドタウン。駅や商店街が近くにあり、福岡の都市部にもすぐ行ける便利な場所だった。
二つ目は青柳小学校。1年生の終わりから3年生の終わりまで通った。
古賀インターという九州自動車道のインターチェンジがある町の、山奥にあった小学校。それまでの環境とは打って変わって、ザ・田舎だった。
学校までは田んぼ道や山の間を歩いて45分はかかった。帰りは友達と遊びながら帰っていたので、2時間くらいかかってた気がする。
田んぼに入って靴を無くしたり、川で遊んだり、人の土地のみかんを勝手に取って食べたりしてた。
三つ目は新宮小学校。4年生から5年生の終わりまで。古賀の隣町、新宮にある小学校。
家の近くには、白い砂浜と透き通った青い海が広がるいい場所だった。
香椎浜は泳げる様な海じゃなかったけど、新宮の海は海水浴も釣りもできて、しょっちゅう遊びに行っていた。
僕の少年時代のピークは、5年生の時だったと思う。
「うんこ大王の浦ちゃん」というあだ名で呼ばれ、クラスのムードメーカー的存在だった。いつも冗談ばかり言って、至る所にうんこの落書きを残しまくる。
それでいて、男子とも女子とも仲が良かった。
四つ目は、小学生として最後の1年を過ごした千鳥小学校。また、古賀の町に逆戻り。
今度は山ではなく、郊外のベッドタウンという様な町だった。少し歩けばキレイな海があり、近所に駅もコンビニもスーパーもある便利な場所。
この先、成人するまで、僕はこの町で過ごすことになる。